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更新情報  

 

1991年   シンスケ「気の合う仲間と味な店」を追加
1972年   松野一夫「イラストレイションNo1」を追加
2012年

「細江英公人間写真集 創世記 若き日の芸術家たち」 に1972年の松山先生の写真が掲載されています。元はアサヒカメラの連載・顔5のための撮影ですが、すべて雑誌とは別の写真になっています。

1980年

「開かれた法華の新法門」追加

1977年

「チベット放浪」「シュリー・ヤントラ」追加

1979年

モスクワ中央人形劇場 追加

下記リスト以外で心当たりの方は、銘苅アトリエまで連絡いただけないでしょうか?

松山俊太郎執筆目録 2000年5月17日作成
一 著作品
二 翻訳
三 対談、鼎談、座談会
四 インタビュ-
五 松山俊太郎先生についてかかれたもの

1930年8月27日
三田綱町に生まれる

1943年
府立四中入学

1946年
2月2日 手製の手榴弾分解中の爆発事故で左手首、右拇指を失う。その為の留年以来、浪人の癖がつく。

1951年
東京大学教養学部文二9D入学。同級生、阿部良雄、石堂淑朗、種村季弘、吉田喜重など。

1953年
印度哲学梵文学科( 梵文専攻)に進学。この科を選んだ最大理由はバカがいなくて
(つまりクラスメートがいなくて)最低の成績で進学できると思ったためである。

1960年?
大学院修士課程修了(印哲専攻)大学院には 梵文専攻なきため余儀なく入ったのである。
大学入学以後の8~9年は酒と空手と古本漁り以外は何もしなかった。
学士論文「バルトリハリ作、シュリンガーラ・シャタカ(恋愛百頌)について」
修士論文「古代インドの回帰的終末観」いずれも予定の数分の一で時間切れ未完。
1950年頃より「時間」に、1960年頃より「蓮」に興味を持ち、資料を蒐集中なるも業績なし。

過去には、クウェート外交官に英語を(アラビア語で)教えたこともあり。
ー以上自作年譜 「アサヒカメラ」細江英公 連載(顔)5よりー